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執筆者の写真Yuki Ogino

「いつか、この世界を愛さないといけないなぁ」。そして、『浮世』という作家名について。


「supernova」/BUMP OF CHIKEN


※今回のブログは自己の生死観を通じて人生について話します。

苦手な人、生や死に関して過去に何らかの傷を持っている人は、無理せずブラウザバックしてください。

また、一ヶ月前に書きかけて途中で書くのをやめた記事に、さらに加筆して仕上げています。

時系列がごちゃごちゃすると思いますが、ご了承ください。

「熱が出たりすると気づくんだ 僕には体があるってこと

鼻が詰まったりすると解るんだ 今まで呼吸をしていたこと」

from -「supernova」/BUMP OF CHIKEN

コロナに罹りました。(2022/08/24時点)

自宅(正式には彼氏の家)隔離中+風邪っぴきの体でこれを書いています。

熱に浮かされながら考えていたことが一つあって、それを共有します。

それは「生きることは自分では選べない」ということ。

前々回のブログでもそれっぽいことを言った気がしますが、これは必ずしもネガティブな意味合いではなく「自分の器官や臓器が動き続けるのに、自分の意志や意識は関係ない」ということです。体と心(私は心=意識、自我だと思っています)は繋がっている、となんとなく思っているけれど、コロナに関わらず何かしらの病気をした時に「体は心の意志を超えて、勝手に生きようとする」んですよね。咳や熱や痰や鼻水は確かに辛いけれど、身体がウイルスと言う外部勢力に抵抗している証です。


また、私たちがこの世に生まれたことも突き詰めれば「自分の意志ではない」ですよね。

ここで断っておきたいのが、この世に生まれること、特に夫妻が望んで妊娠して子供を得ることは手放しで喜ばしいことです。ただ、そうではない子供達がいることも頭に入れておくべきことでしょう。虐待する親、放置する親、毒親、などなど。「好きでこんな家に生まれたわけじゃない」と思う子供が一定数いるのも、現実問題あると思います。

さて、話が少しそれましたが、この2点の思考を私はコロナにかかる前になんとなくぼんやりと考えていました。

それは「自分の器官や臓器が動き続けるのに、自分の意志や意識は関係ない」ということ、私たちがこの世に生まれたことも突き詰めれば「自分の意志ではない」と言うこと。

それを考えるきっかけになった出来事が17歳の時にありました。

それは「私は17歳の時、自殺しようとして結果的に思いとどまった」という事実です。

人が自殺に走っていく背景には、「自己の生への疑い」があると私は思っています。

自分が生きていること、自分が愛されていること(この世で生きるにおいてとても重要な要素です)を確立できないがゆえに「そんな自分の存在を否定、抹消したい」という思いに駆られる。それらはすべて「自分がこの世に生きていて、それが楽しい」と感じる機会を得ることができないからだと思います。


創造と破壊は紙一重と言いますが、丹精込めて作った作品に一つの欠陥を見つけてしまうと完璧主義の傾向が強い作り手は「1/100でもマイナスがあるなら、これはボツだ(破壊しなければ)」という思考になってしまいます。この思考は、自殺を考える人の思考に酷似していて、根底に過度な完璧主義があることが原因になっていると私は考えます。とはいえ、人が自殺を考える経緯は様々ですので(自分ではどうしようもない要素、例えば家庭や学校の環境などが原因のケースもあります)一概にこう、とは言い難い問題でもありますが。


(ここから2022/09/23加筆)

未熟な17歳だった私は、「自己の生に確信が持てず」、「0,100思考の完璧主義者」でもありました。その時期にいろんな要素が重なって、私は高校に行き続けることが難しくなっていました。そして、いつものように学校に行けなかったある日。

「橋から飛び降りて、死のう」

そう思いました。でも、結果的にできなかった。実際に橋の近くに行って、ぼんやり川底を見て思いました。


「死体になった私は、きっと美しくない」。

そして、私は家に帰りました。

生の実感が不確かでも、薄々私は気づいていました。「生きている、この瞬間が美しいのだ」と。ただ、当時はそれに対して自信がなかったし、確信も持てなかったし、開き直ることも難しかった。だから、死のうと思った。でも、思いとどまった。「死んでただの「物体」になった私(死臭をたたえ、蠅の集った私)は果たして美しいのだろうか?」と。


そして、私の作家名『浮世』は自死を選ぼうと思ったあの日から2年後の19歳の頃に自分でつけました。

その時のメンタルはまさに「生き損なった、死に損ない」という感じで最悪な気持ちで生きていました。

でも、その時私は思いました。

「いつか、この世界を愛さないといけないなぁ」



世界が死の息吹に覆われ、例に漏れず私はコロナに罹って、そしてなお生きています。運が良かった、年齢が若かった、ワクチンを2回打っていた、抵抗力があった。いろんな理由があって、私の命は、17歳の、あまりにも潔白に生きようとしすぎた私の意志に反して生き続けています。

これは27歳になって思うことですし完全な主観として断っておきます。

残酷ですが「生きている意味」、そんなものは最初から無いのだと思います。というか、「生きている意味」を考えること=生の実感には繋がらないことが多い。迷いを生むだけだと思っています。私の体感ですが。

ただ、決まっているのは「死」「終わり」の方だけ。

「人は必ず死ぬ」とか「始まりは終わりの始まり」とか、そういった類のこと。

それだけが確実に、絶対などないはずの「この世」で絶対的な概念でしょう。悲しいですけどね。でも、自分の命も、あなたの命も、動物も、植物も、この星も、この宇宙も。いつか終わりがきます。でも、その終わりを受け入れることで、人間は古い皮を脱ぎ去って、脱皮することができるのではないでしょうか。


最悪な精神状況で、「この世界を、いつか愛さないとなぁ」と思ったあの頃の私に、

私は心の底から感謝したいと思います。

私の心臓は、止まってはいません。

そのうちは、たくさん笑って泣いて、悔しがって、一生懸命、生きればいいと思います。

最期に、その額縁が絵画にかけられるときに、涙する人が一人でもいればその絵画は「上等な人生」を描いているのではないでしょうか。


浮世.

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