top of page
執筆者の写真Yuki Ogino

「私なりの歩幅で」




※今日のブログタイトルは私のSpotifyのプレイリストタイトルの一つから。



”私が描きたいことはなんだろう。”

”絵を描く意味ってなんだろう。”


九月に開催されたアトリエ三月様のコンペ「FLAG」の終了と共に、

「前向きな活動休止宣言」をさせてもらってからずーっと考えていることがそれ。


私は中学生の頃、美術部のない中学に美術部を作りたいという同期と共に美術への親しみを深めていきました。そのきっかけは「ただ描きたかった」だけで、そこに深い意味はなかった。でも、今の私は「描く意味」を探しています。

十代の頃、とりわけまだ「未知」の部分が多かった年齢の頃は「ただやってみたい」という衝動、感情で進んでいけた。だからそのエネルギーを糧に「美大もしくは芸大に合格する」という一つの目標を掲げることもできた。そしてきっかり四年間美術を学んで、三年間作家活動をして、いろんな作家さんや作品、ギャラリー、ギャラリストの方々と出会って、自然と私は歩みを止めました。

それはネガティブな意味ではなく、「それが必要だ」と自分の中で強く感じたから。十代の頃、どうしようもなく創ることに惹かれたのと同じように。



ところで余談ですが、私の友達や私を知る人など第三者からの、比較的早い時期の評価は「優しい」「ソフト(もしくはマイルド)な印象」なことが多いです。けれど、私は私をあまり優しいとは思っていません。むしろ、矛盾した感情、軋轢を抱えていることが多く、常に緊張していることが多いです。それはやはり一人で抱えることが多く、人に相談することもあまりないのでそういったハードな印象は抱かれない。それに、実際そういったハードな側面を抱えていても「印象として、そう思われたいわけではない」と思っているからこそ、相談、表出しないのかもしれません。


しかし、事実…というか私自身は私自身に「厳しさ」を持っていることが多いです。それが他者に向かうことがないから、私は「他者」から「優しい」と思われることが多いですが「自分自身」への「厳しさ」は人一倍自覚しています。


だからこそ、二十代後半、すっかり大人になった今思うのは、

衝動や執着にも似た「やさしく在りたい」という想いです。

私の「やさしく在りたい」という衝動は底がありません。去年の年末に大学時代の親友とご飯を食べたときに、来年の抱負について話したのですが私はその時もやはり「優しくなりたい」と言っていました。その時、親友からは「もう十分優しいんじゃない?」との返答がありました。


そうかもしれません。

私が持つ優しさのエッセンスは十分、基準以上に達しているのだと思います。だからこそ、他者は私を「優しい」と評価します。


でも、私はもっともっと、人としてやさしくなりたいと思うのです。

それは、きっと私にしか持ち得ない才能なのではないか。他者と厳しく競争し、炎のように燃えたぎるような強く鋭い想いはなくても、たおやかにやわらかく、あたたかな水のように、風のように人を包み込める作品が作れたなら。

そして、見ている人の心や傷が、それによって癒やされることがあれば。


きっと作家としての私の幸せは、誰かを蹴落として手に入れる名声や権力ではなく、あなたの笑顔とどうしようもなく溢れ落ちる涙なんだと思います。


あなたとわたしのどうしようもないゆらぎに、おだやかなかたちを。


要約:そろそろ作品更新できればと思います…!笑

閲覧数:21回0件のコメント

Comments


bottom of page